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観戦雑記 =応援幕を作るまで= その1

 ◆ 1998/1999〜2000/2001シーズンまで ◆ 

♪…なんとなく、関心を持ち始めたころ…
きっかけ 亜鈴はおそらく、1999年4月にトリグラフトロフィーで優勝したとき、帰国後に山陽新聞が取材した記事を掲載したのを見て、初めて大輔君を知ったのだと思う。
それまでは岡山県のフィギュアスケート選手と言えば、現在ディズニーアイスワールドで活躍されている松浦功さん、リカの大学のA君、現在引退されているが出身中学校が同じK.Y.さんぐらいしか知らなかった。
「中学2年生でトリグラフトロフィーで優勝か〜」と、フィギュアスケートやジュニア界のことをまったく知らない亜鈴は感心してその記事を読んだ。
初観戦 初めて大輔君のスケートを見たのは、1999年冬の全岡山だと思う。
あまり自信ない(^^ゞ
とりあえず、初めて見た大輔君のスケーティングに、それまで抱いていたジュニアの定義が根本から覆されることとなった。
全岡山

リカの大学のA君が出ることを知り、A君が載っている大学案内を携えて観戦に行った。
A君にサインをもらいながら(笑)、「がんばってね〜」と言うと、彼は「相手が高橋君だからダメですよ!!」とすぐに答えた。
「え〜どうして〜?中学生でしょ?高橋君って」「とにかく彼には勝てないです」
…などと素人丸出しの質問をした亜鈴だった。
A君と大輔君の滑走順はどちらが先だったかは忘れたが、ジュニア選手権クラスはこの二人しかエントリーしていなかった。
A君…何も言うまい。
大輔君…今まで滑ってたJAクラスの子達と年は変わらないのに、テクニックは違いすぎる。リンクがすごく狭く感じる!彼にはこのリンクは狭すぎる!!(実際、岡山国際スケートリンクは狭い)

県内観戦 亜鈴は自分では滑らず、当時はTV観戦オンリーのため、いつどこで県内の競技会があるのかはまったく分からなかった。
日程などの情報はリカの大学のスケート愛好会の顧問であったY先生から仕入れ、そして見に行っていた。
そういう県内観戦生活が1シーズンほどあった。
当然、まったく知り合いはいないので、プログラムはどこにあるのかももらっていいのかも分からないし、「ピアノの発表会」のノリの競技会に、辟易もした。
国体 2001年の冬季国体は、大雪の山梨県で行われた。
初出場にして初優勝した大輔君だったが、その裏には温かなエピソードが隠されていた。
その冬は記録的な大雪でのため、出場するために乗っていたJRの列車が動かなくなってしまったのである。
コーチは選手達のコンディションを考え、停車している駅近くの建設会社に車を貸してもらえないか交渉に行った。
そちらの建設会社の社長が遠い所から国体のためにやって来た子供達の窮状を知り、自ら車を運転してそのかなり遠くの会場まで送って行ってくれたらしい。
その時に乗せていた子供の一人(大輔君)が優勝し、また岡山県少年男子が団体優勝したことも知って、社長は我がことのように喜んでくれたらしい。
山陽新聞には記者のコラムでかかれていたが、残念ながらネットにはUPされていなかった。
ラウンジ 玉井清一氏の「フィギュアスケート通信」には、元々(今でも)アレクセイ・ウルマノフのファンである亜鈴は1998/1999シーズン頃から出入していたと思う。
そちらのサイトの人気ページ「ラウンジ」に大輔君の掲示板ができたのは、2001年1月27日だった。
国体と全中の直前のことだった。
29日には亜鈴はそこへ初訪問し、以来最も入り浸っている。
やがてkoji kojiさんとF氏が現れ、そして2001年4月14日のOHK杯で亜鈴は初めて二人に会うのであった。いや、すでに全岡山などでお目にはかかっていたのかもしれない。
OHK杯

koji kojiさんとは、ラウンジ経由でメール交換を始めるようになっていた。
そのころから大輔君のことを詳しくよく知っているな〜と関心はしていた。それもそのはず(笑)。
そしてEX出場の大輔君の「ワルソーコンチェルト」を見たあと、koji kojiさんは亜鈴と大輔君を並べて写真を撮ってくれた(^^) 
F氏には地方大会などでお会いすると、解説や苦労話などをいろいろ聞かせていただいた。
いろいろ教えていただいたが、ここではとても言えない。
OHK杯には玉井清一氏もパソコン+プリンターを持ち込んで、せっせと得点集計をされていた。
「彼があのせいいちさんか〜!」と感慨深く、彼の働きぶりを見ていた。

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最終更新◆ 2002年12月12日 3:06